昭和51年9月4日 朝の御理解
中村良一
御理解 第64節
「此方は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路のところを参って来るが、信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれ。」
確かに、今の金光教の、おー、信心で、身凌ぎが出来るようなおかげを頂くという事は、大変、至難になった。難しゅうなった。そんな感じが致します。んー、それは、えー、参って尋ねるところがなくなった。言うなら、教祖の御教え。まあ、今風の経典なら経典がありますけれども、どこを、どう頂いたらよいかという事が分からない。まあ、一番、大雑把に言うて、えー、最近、まあ教団で、新運動の発足。そして、それは、どこまでも、ね。天地書附を基軸にしてと言うわけですけれども、その天地書附の、おー、芯でありますところの、いわば、和賀心、おかげは和賀心にありと仰せられる、その和賀心を、どういう風にして、その和賀心を頂いていくかという事を、まあ、えー、教えていくというか、つまびらかにして行くという事が、大変難しゅうなってくる。で、その、和賀心におかげがあるとこういう。だから、いうならば、本気で、なら、和賀心とはという事を、追求していく事になるのですけれども、いよいよ、本気で取り組んでみると分からないことばっかりに、いわば、直面するんです。いわゆる、壁にぶっつかるんです。そこをまた、教えて頂くところが、いわば、無くなって来た。たいてい、和賀心になること精進しているんだけれども、おかげが受けられないとこういう訳です。まあ、おかげを頂いて、合楽では、まあ、今日、このようなおかげを受けております。もちろん、これが、これに留まることがあってはなりません。いよいよ、日勝り、月勝りのおかげを受けていくことのために、これは、私を芯として、皆さんも、いよいよ、おー、和賀心の追求であり、本当に身凌ぎが出来るような、あー、豊かな、あー、人間としての幸福。そのための条件が足ろうてくるおかげを一つ、どうでも、いただきに頂きぬいていかなければなりません。これで良いという事はありません。限りがありません。ね。
実は、今日も、んー、呉地区の青年教師の連合会の方達が、えー、四、五名で、合楽を尋ねたいという、宮中詮議があっておりました。まあ、一晩泊まりで、えー、研修があります。で、えー、今日は、幸い、神愛会でもございますから、先生方が集まって、信心の研修を致しますから、それに、間に合われたら良いなと思いよったら、先日、井上君から手紙が来て、出来れば、是非その、神愛会に参加したい。そして、一晩泊まりで、まあ、合楽の信心を、まあ、研修したいというのか、えー、今日、合楽でおかげを受けておる、そのまあ、いうならば、元を探ろうというような事ではなかろうか。
先日からも、その方達で、四国の、今、大変ゴヒレイを頂いておられる、双岩教会にも、おー、そのメンバーでおいでられたらしいです。その方達が、いわば、合楽に、まあ、見えるわけです。まあ、今日の御理解から言うと、参って尋ねる所がない、無くなって来た。ね。どうしてほんなら、今日、こういう、言うなら、田園教会、ね。今度の新聞にも、写真が出ておりますが、全く、田んぼの真ん中という感じですね。ただ、広々と、田んぼのところが写してありますから、本当に、田んぼの真ん中のような、あー、教会に、ね。沢山の人が、日々、えー、お参りをして、沢山の人が助かっていっておるという。その助かりの元を、私は、まあ、きたんなく言うなら、知りたいというのが、それではなかろうかと思うのです。まあ、そこで、ほんなら、皆さんの場合だっても、やっぱりそうです。私は、今、一番、合楽で、有難いというのはです。ね。尋ねることが出来るという事だと思うです。ね。こういう信心すれば、御徳が受けられる。こういう信心にならなきゃおかげは受けられない。ためには、しかも、それが、決して、難しいことではない。むしろ、有難うなり、楽しゅう、それが出来れる手立てというか、手掛かりというようなお話が、毎日、あっておるという事でございます。だから、それを、手掛かりとしなければです、おかげは受けられないです。それを、やはり、行じて楽しゅうなるところまで、身に付けていかなければ、お徳は受けられないです。ね。
今朝、私は、御神前に出らせて頂いたら、ある人が、後ろ手に縛られて、柱のような、その、これに、うつけられとるところを頂いた。ね。それで、一生懸命、そのもがいて、その、その縄を解こうとしとるけれども、なかなか、縄が解けない。ね。例えば、今、例えば、そこに、窮屈とか、難儀とか、苦しいというものを、おー、感じておるならばです。その難儀から、ただ、逃れたい、逃れたいというのは、ちょうど、檻にいわえられておる人が、どうかして、その、自由になりたいと言っておるのと同じような事じゃないでしょうかね。よし、ほんなら、一生懸命、そのやって、ほどいたり、綱を切ったりして、まあ、自由になったと致しましてもね。そこには、人間の幸せはありません。なぜかって、ね。あの、私は思うんですけどもね。おかげは許されたおかげでなからにゃいけないという事です。ね。健康であることが許される、ね。財の面にも許されて、まあ、一切の事に許されて行い、ね。許されて出来るおかげを頂かなきゃいけません。それを、例えばほんなら、結わえられておる人が、一生懸命に頑張って、それを自分でほどいて、自分でそれを、綱を切って、ね。そして、例えばまあ、一生懸命、足を、なんていうですか、なら、金が儲かったと致しましょうか、ね。そしてその、なら、金なら金、物なら物をです、ね。誰が守るかというと、自分自身で守らなければなりません。ね。ですから、如何に、そんなら、自分が例えば、外出をする時に、あれは何と言うですか、あの、ボデーガードて言うですか、ね。力の強い人達を、こう自分の周囲に、その、えー、して、守ってもらう、ね。いうなら、自分の力、自分の金を出して、そういう守り方をしても、それは、人間が守ることですから、たいした当てにはなりませんです。自分で作った財産というほど、もろいものはありませんし、弊害が多いことはありませんです。これは、財産とか、そういう事以外には、一切が無碍です、ね。自分で作る幸福なんて、実際はありえないです。ね。許されての幸福、許されての幸せです。ね。許されての健康です、ね。許されてのものです。私は、今日、ここんところで、えー、「信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれ」という事だと思うです。ね。それを、この頃から、あー、教祖様の信心の、おー、いうならば、あー、一番大事なところは、どこであろうかというような質問を教祖がなさっておられるですね。あの、佐藤四九郎という方が。ね。佐藤範雄氏でしたかね。そん時に、何ヶ条かの、これが大事だという事を教えておられるなかに、欲徳という事を言うておられます。もう、私は、この、欲徳という事は、こら、教祖様は、間違えてから、あんな事を教えておられるのじゃかと思いよった。ね。欲徳てんなんてん。欲の徳です。酔っ払いの神徳の徳です。けれども、段々、分からせて頂いたら、ね。まあ、いうならば、ここでは、私が受けておるようなものだなと感じるようになったです。ね。昨日の御理解の中に、アイスクリームの話が出ましたね。あれなんかは、一つの欲徳です。ね。軟らかいですよ。いわゆる、どこまで買いに行きゃあろうけれども、アイスクリームが食べたいなと言うたら、そこに、ちゃんと、冷蔵庫の中に、誰かが、入れてくれておったというような事です。ね。いうならば、ね。必要なものが必要に応じて、いや、むしろ、必要ではないと思うておっても、先立つ神様が、ね。必要になるものをです。神様がもう、先回りをして、おかげを下さってあるということです。ね。それは、皆さんが、私の私生活、または、私の信心生活を見てくださるが一番良いわけです。ね。お金が要る。幾ら幾ら要ると言や、お金が、幾ら幾ら、ちゃんと集まってくる。ね。いうならば、人間の欲と言うものは、それに、我欲というようなものではなくて、ね。もう、当然の事として、ね。お腹がすけば、ご飯が食べたい。喉が渇けば水が飲みたい。ね。暑い寒さを防ぐためには、やはり、一枚の着物も、相当の設備も必要である。ね。そういうようなものがです、我力でなくて、神様のおかげで出来てくる。いわゆる、許されて頂けれる。許されて集まってくる。私は、身凌ぎとはそういうことだと思う。そこで、いうならね、なら、教祖様が、仰っておられる。「此方は参ってたずねる所がなかった。」私共もそうだった。色々と、お説教いただいたり、先生の話を聞かせて貰うて、もう、手探りで、色々とやってみたけれども、おかげは受けられなかった。ね。もう、御用すりゃ助かるてんなんてんちいうちから、あんまり宣伝されるもんじゃから、ほんなごて、御用すりゃ助かるじゃろち思うちから。本当に、一生懸命御用させて頂いたら、もう、返って困った結果さえ起こってきた。ね。そうではなかった。いうならば、肝心要のところを要としていなかった。天地書附を基軸にしてというようなところに、気が付かなかった。朝晩、唱えておるけれども、ただ、唱え言葉に過ぎなかった。ね。そこで、ほんなら、私が、ここで、それは断言して言えれること。私がおかげを受けておるところの程度までならば、私の話を聞いてくだされば、必ず助かるという事である。ね。しかも、ほんなら、私が、これが、今日、ここが終点ではありません。ね。生きてる限り、この信心が進められていくことでしょうし。そこには、おかげの世界もまた、大きく広くなって行くことを確信しております。ね。だから、今日、私がおかげを受けておる、この程度のことならばです。私のいう事を、守るならば、実行するならばおかげがいただける。それも、私が、鼻をつねってきておるから、皆さんも、楽しゅうやってくれると思うんですけれども、ね。たずねる所がなかった。尋ねるところがあった。
先日も、ある教会のご信者さんが参って、朝の御祈念に参ってきておられます。そして、大体、私は、どこを改まったならば、おかげが頂けるでしょうかち言うて。「あーたが、改まらにゃんち言うなら、あんまり沢山あるけん、一言、二言じゃないでしょうが。」ち、私が申しました。ね。それよりも、今朝の御理解の、どこを頂いたかという事なんですよと、おかげを頂くという事は。合楽の先生に聞けば、ね。指摘して下さる。「あんた、ここば改まりなさい。」「あんた、ここを直しなさい。」と例えば、言うて下さると思うて参って来たのかも知れません。けれども、改まらにゃんと言うならば、もうそれこそ、一言、二言じゃないでしょうが。今朝の御理解を頂いて、その御理解の中から、はあ、ここが分からなかった、ここが守っていなかったというところをいただいて、守っていく以外にはないです。というて、まあ、お伝えさせて頂いたことでした。そこで、そんならばです、ね。合楽に来て、例えばほんなら、今日、文雄先生方が見える。もしほんなら、私に、どういうような信心すりゃ、身凌ぎが出来るようになるか。教祖は、身しのぎという事を、欲徳という風に言ってられますね。どうしたならば、その必要な物が必要に応じて、まあだ、徳には、様々、色々あります。けど、そのなかで、教祖様は、やっぱ、大事なものとして、欲徳という事を言うておられますが、今日の、身しのぎという事をです、ね。人にお世話にならんでも、必要な物が必要に、ちゃんとこう足ろうてくる。集まってくる。人間が、生活をして行く上に、または、幸福になるために、生活の必需なもの。まあ、幸福なら、幸福の条件というものが足ろうてくる。しかも、願わんでも、神様が、先回りをして、おかげを下さるような働きにも受ける事が出来る。そういう、私は、おかげを、欲徳だと言うふうに思うのです。そこでです、その、なら、欲徳を身に付けさせていただく。自分の、言うなら、まあその、欲のためにですか、生活のためにです、ね。一生懸命、ほんなら、今、苦しい人は、ちょうど、その柱にくくられておるようなものですから、いわゆる、自分で、それをほどいて、自分でその綱を切って、自分で自由な働きをして、自分で自由に、なら、築きあげた、なら、財産なら財産、なら、地位なら地位をです。果たして人間の幸福のためになるか、子孫のためになるかというと、さに非ずという事を分からせて貰うて、ね。神様に許されての財産、ね。神様に許されての自由、ね。ですから、ほんならこれは、そこに窮屈な思いをしなければならない。そこに、いつけられておる、いうなら、事実をです、ね。どうして、自分が、こういう窮屈な思いをしなければならないか。くくられなければならないかという事を、先ず、分からなければならないという事です。ね。そうして、(はあどある、?)自分が、ね。例えて、不自由せんならんわけ、意味が、段々、分かってくる。ね。それを、いよいよ窮屈な、いうならば、後ろ手に縛り上げられておる時に、分からせて貰うて、ね。もし、許されて自由になった時には、こういう日を、またと繰り返すようなことは、致しませんといったようなものが出来て、初めて、私は許されると思うのです。ね。だから、神様が許される、神様がほどいてくださる時期を待つ以外にはないです。ね。だから、それを例えば、一年不自由しなければならんとを半年、半年不自由しなければならんのを、なら、一月ででも、分かっていただくためにはです。ね。やはり、それだけの事がなされなければいけません。ね。
例えば、罪を犯した人が、まあ、捕えられ。そして、中では、あー、色んなその、働きを、まあ、しなければなりません。それで、勤めが良かったり、心がもう、改心の情というものが見えてくるとです、例えば、十年間の刑であっても、それが八年になったり、五年になったりするのが、人間の、おー、世界にもあるように、神様の世界にも、やっぱ、同じことが言えます。とても、私共のように巡りの深いものが、ね。いわゆる、何十年前のような信心をしておったら、とにかく、一生、窮屈な思いをしなければならなかっただろうと思いますですね。そして、今までの信心、色々してきた、あれやらこれやらというようなことが、ね。本当でなかったことに気付かせて貰うて、いよいよ、本当な事、これが本当な事だと言えることを、自分で確認したのは、私が、いよいよ、成り行きを大事にしたという事であります。そして、これが、真の信心だとまで、私は、それを思い込ませていただくようになりました。そこで初めて、ね。一切の、言うなら、事柄の中にでも、御の字を付けなければおられないものが出来てきた。そういう信心に、段々、ならせて頂いて、それが、いよいよ本当のものになってくるにしたがって、おかげもやはり、本当なものになってきた。私達ばかりではない、私の周辺に、沢山な助かる人達が出来てきた。合楽の信心は、んー、他に手はない。もう、そら、成り行きを大事にすることだけだと言うても良いわけです。
身凌ぎができるようになる、それは、その時その時、それなりにおかげが受けられる。それが、段々、育っていくことが楽しゅうなってくる。いうならば、修行が、有難いものになってくる。信心を止めろと言われても止められた段のことじゃない。いよいよ、信心が大切になってくる。そういう、例えていうと、おー、成り行きを大切にすると、一概にして言えばそういう事ですけれども、その事の、あらゆる、例えば、私の体験を通して、また、神様のお知らせを頂いて、ね。そこは、こういう、受け方、頂き方があるということを聞いてもらうのですから、それをやはり、身を持って行じなければ、参りよれば、いつかはおかげ頂くじゃろといったようなことでは出来んという事です。参ってたずねる所があるのだから、尋ねるという事は、どういう事かと言うと、ね。こうやって、おかげの頂けれる一つの元にもなるもの。身凌ぎの出来れる元になるお話を頂いておるのですから、それを、守り、行じなければならないという事です。そこんところに、ま、昨日の御理解を言うとです、ね。「此の方の道は、傘一本で開ける道という事」は、今は、「喜び一つで開ける道」だと。けれどもその、いかにも簡単のごとあるけれども、その次の、ほんなら、御理解を頂くとです、ね。「下から上へ水を流すように」と言っておられます。だから、そこのところの稽古がいるんだという事です。なら、それは大変、下から上に水を流すことは難しいけれどもです。そこのところの、手掛かり、足がかりをです、教えて頂いておるのが、日々の御理解だと思うのです。ね。とてもとても、こんな、もう、切り立ったような山に、下から見た時には、登れそうにもない、けれども、本気で、ほんなら、親先生が言う通りのことをさせていただこうと、一心発起させて貰うとするならです。ね。必ず、手をかけるところがある、足を掛けるところがある事に驚くのです。ね。そして、途中で、下ども見るならばもう、それこそ、目の舞うごたるところを、ようもここまで登ってきたもんじゃあると言うて、ね。そして、頂上を極めるというか、そこには、ちゃんと、足を置くところがあり、いうならば、こう、手につかんで握るところがあるのに驚くです。ね。だから、本気で、それを行じようという。本気で、下から見たなら、とてもあげな真似は出来ん、あげな事は出来んと言うとったんじゃ、だから、一生、お参りをし続けても、そんなおかげにはならんという事です。ね。本気でね、やる気にならなければならないという事。
合楽の、例えばほんなら、信心をです、ね。どこにおかげの頂くか、おかげを頂いておる元があるかというと、いうならば、本当な事、ね。真の信心。成り行きを大事にするという事は、ね。いうならば、天地日月の心になること肝要と言われる、天地日月の心というものが、その内容に出来てくることです。成り行きを大切にして行っておるうちに、ね。そこから、おかげが受けられてくるようになる。身しのぎの出来れる信心が出来てくるようになる。私は、今日、一番思うことはです、ね。此方は参ってたずねる所がなかった。私も、やっぱり、参ってたずねる所がなかった。教祖様のみ教えを、このようにして頂いておるけれども、ほんなら、どこをどう頂いたら良いか分からなかった。ね。そして、今、あの、おー、いよいよ、本気でです、色んな修行させていただいたなかにです、ね。起きてくる問題というか、難儀というか、それをもう、とにかく、合掌して受ける事を修行とさせて貰うという生き方を、それが本当かどうか分からなかったけれども、それを行じさせて頂いておるうちにです、ね。こういう素晴らしい、本当な事が、またとあるだろうかと思うように、素晴らしいことになってきたんです。だから、もう、それだけなんです。ね。そこに、段々、神様のお心が分かるようになり、いうならば、神様の大恩が分かるようになり、ね。その神様の大恩に応えまつる心は、いよいよ、強うなってくる。神の大恩を知ればとか、ね。おかげをおかげと知れば、おかげになる、徳になると教えておられるがです。今まで気付かなかったおかげを、おかげと気付くようになり、そこに、神恩報謝の心は、いよいよ、頂けるようになり、ね。いわゆる、おかげのいただける道は、もう、いよいよ、広まって行くより他にない事になってくる。ね。そして、思うことがです、これが神の心であったという事なのです。いうならば、神愛であったという事なんです。ね。そして、私の前に、難儀と言うものはないという事になってきたのです。難儀と思うておったのは、迷いである、ね。それは、神愛であったという事になってくる。だから、私の前には、難儀という字はないという事まで言えれるように、段々なってきたんです。ね。一切が神愛だと分かった。いうならば、神様の心が分かってきた。神様のご恩が、いよいよ、分かってきた。神様のおかげが、いよいよ、おかげとして分かってきた。ね。ここへ参ってくる人達はです、そういうおかげの頂けれる話しを頂く事が出来、道を教えていただくことが出来るのだから、ね。その道を、本気で行じようという気にならなければ、ほんなら、話を聞いとるだけでは、いつまでたっても、身しのぎの出来る信心、いうならば、欲徳のおかげは身につかないという事であります。ね。だから、本気で、やはり、いわゆる、頑丈一念に燃えなければならないという事ですと。ね。そこが分かってくればくるほどに、なら、今月の焦点でありますところの、お役に立ちたいと言う一念は、おかげを頂かなければならんから、お役に立ちたいというのじゃない。神様のおかげが分かるから、大恩が分かるから、ね。それに、お応え申し上げなければおられないという、止むにやまれん念が生まれてくるのです。昨日は、梅の実会でしたが、若先生が話しておりました。今、何か、もろごん塔か何かというご本を、あの、どなたからか頂いて、それを読ませてもらいよるが、いわゆる、キリスト教なんです。その、宣教師というですかね、布教者達が、もう、または、沢山その、言葉が出てくることは、神の栄光と誉れという事を、沢山出てくるそうです、そのご本の中に。ね。その、神の栄光、神の誉れを世に現すというためには、先ず、自分自身が、神の栄光を体得しなければならないという事。いうならば、神の大恩を知ればと仰る。神の大恩を知らなければならぬという事です。今まで、おかげでないと思っておったことが、おかげであると、先ず、自分が知らなければならないという事です。こういう、神様の御恩恵の中にあるという事を分からせて頂いたら、それを人に伝えていかなければおられないというのが、布教者の精神だという意味の事を言っております。それは、布教者だけの事ではありません。ね。御道の信心者信奉者の全部がです、先ず、ね。神様の御恩恵が分からなければならない。その、分かる手立てとしてです、神様の心が分からなければいけない。その、心が分かる手立てとしてです、本気で、成り行きを大事にさせて貰うという修行の取り組んだらです。神様の心が分かり、ね。天の心が分かり、地の心が分かり、日月の心が分かって、その天地日月の心が、自分の内容になってくる程しのおかげを頂いたら、もう、そこには、身しのぎという、いうならば、欲徳だけではない、ね。いわゆる、神徳が頂けてくるようになるのです。
私は、昨日、んー、手紙が参っております、田中佳代子さんがお母さんですけどもね、田中恵美子さんの。もう、大変な、感動的な、何時もお手紙を頂くんですけれども、んー、ずーっと、読んでおるうちに、今までは、あの、親先生、親先生と書いてあったのが、大親先生と書いてある。あー、書き損なってあるばいなと思いよったら、そこから、沢山まだ、出てくる、その言葉の、あー、私をいうわけですね。親先生、おかげでという時に、大親先生、大親先生とみんな書いてある。私は、思うのにですね、とにかく、あの、んー、もう、どうか、言わねばおられないわけです。まちっと良い称え言葉とでも言うでしょうかね。ね。大の字をつけなければおられんのです。それは、自分自身がおかげを頂いてこられたからです、ね。しかも、宮崎地区に、それこそ、シャープなおかげを頂いておる。もう、それがもう、一言、一言、見事である。ね。初めて連れてお参りをさせて頂いた、その人が、ね。子供の、あの、どこへ行っても、直らなかったという、身体中に出来ておる、その皮膚病が、帰った時には綺麗になっとった。それから、四、五日して分かったことは、そこのお父さんというのが、いわゆる、永い間、肝臓の病気が持病であった。家内が合楽に着いただろうかというころから、その症状が全然なくなってしまったんです。辛抱しとったら、四、五日しとったら、やっぱり、その、おかげ頂いておるから、改めて、その事が大変詳しく手紙に書いてあります。そういうおかげを頂くもんですからね、もう、先生ちゃ、親先生だけじゃない、もうそれに、大の字をつけなければおられない事になってきた。いうならば、宮崎の網さんじゃないけれども、親神様といわなければおられなくなってきた。ね。私が、大先生でもなからなければ、ね。親神様でもないですけれども、これは、おかげを受けるほうの側がです、ね。そういう、そう表現しなければおられないほどしの、神様のご恩が分かってきた。ね。それに、なら、報いる心というものがです、ね。先日から、この一日に、網さん達が、前の晩からお参りして、えー、明くる朝の御祈念を頂いて帰られましたが、もう、晩遅う、夜中まで、西岡先生の部屋で、遠隔地から来ておる人達ばっかり、あそこへ五、六人ばっかり集まって、お話をしたなかに、網さんが言われるのに、もう、それこそもう、本当に、とてもとても、それは、神様のその、すさまじい働きというものをね、まあ、つぶさに語られたという事です。もう、とにかく、ここへ見えたらですね、全然、一言もものが出らんです、あの方達夫婦は。いつでも。ね。ですから、ここで言いたいことを、あちらで話されたんだろうと思うのですけれどもね、ね。そのくらいに、いうならば、有難いものを合楽で感じておられることが出来た。ね。それにはね、合楽の先生がいう事、その一言をです。本気で ( 途中切れ )